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論語

2017.04.05

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論語
さぁ、いよいよ本流へ

私がなぜ古典にはまったかを人に説明するのが難しいため、自分の整理のために順を追って説明していくこの読書の時間。私も読み直す機会になるため貴重なブログです。さて、いよいよ本流の論語になるわけですが、そもそも日本人が中国の古典である論語を読むようになったのかを解説しなければなりません。私のキッカケは、昭和の偉人である稲盛翁の本からであることは書きました。でも昭和の偉人たちはなぜ論語を読んでいたか。ですが、答えは戦前の学校の教育で使われていたからです。儒教と言うのか、朱子学というのか読び方はいろいろあると思うのですがそのうちの一つというか源流は論語です。

昔々は日本には本というものは中国から輸入していたのです。中国から学んでいたんです。中国4千年の歴史といいますがその教育、エッセンスを日本に輸入していたのです、それらを時の学者たちが体系的にまとめて日本用にアレンジして残ったものが日本の儒教なんです。日本から一歩外にでると「儒教」はまた違うものになります。そんな経緯があるわけですから当たり前のように昔の人々は勉強しておりました。儒教という言葉は歴史的には一言ではいいあらわせないですが私にとっては「身を修める修身の書」なんです。ただ一点そのためだけに読んでいます。4千年以上前の昔の人は、争いに次ぐ争い。その中で、「自分はどうあるべきか」「人間とは」ということを書いているのが論語です。
そんな昔の人が今にも通ずることを書いていることに驚きですが、モノや道具は進化したが人の心は進化していないということなのでしょう・・・。

身を修める書のはずが、どこでどう解釈されたのか、明治維新のスローガンである「尊王攘夷」となり、(ここは水戸学が源流となっていると言われている)明治維新(革命)がなされ、明治に見直されるも教育勅語が発布され、第2次世界大戦の時にこの教育勅語が問題となり、この考え方が問題だったと。敗戦後の教育から儒教の精神がなくなったというわけです。もちろん私もその教育を受けてこなかった一人。あってはいけない考え方もあったでしょうが、日本人が失ってはいけないものまでも失わされた戦後であります。昔だったら幼少期から当たり前のように勉強できていたものが、私が巡り合うまでに30年以上たたないとその存在にすら気づけないことが怖いです。宗教でもそうだと思います。拡大解釈されて・・・大事件が起こる。地下鉄サリン事件もそうですよね。。古典はあくまでも「修身」なので他人に影響を与える本ではないのです。与えるとしたら、「あの人は立派だ」だから私もあの人のようになろう。といういい影響のはずなんです。

というわけで、いちいち説明していかないといけない複雑だと思われている古典ですが、とてもシンプル。でも実践は難しい。儒教といわれるぐらいですから宗教に近いかもしれませんね。

論語は孔子と弟子のやり取りを弟子たちがまとめたものです。そのほとんどが短い文章のため、解釈や時代背景の注釈があります。ですので人によって違うんです。今回の論語もそうですし、稲盛翁の論語も細かい解釈が違ってきます。論語本文を何度も読み返すことで近づいたり遠くなったり。孔子の想いはいまだに生きています。吉田松陰先生はこのことを「七生説」と説きます。意味は違うかもしれないですが私にとっての解釈です。
この前の記事で「ハウツー本を読まなくなった」と書いてしまいましたが本当は「読む必要がなくなった」が答えです。なぜなら現在のハウツー本のルーツのほとんどは論語にあると感じたからです。

論語を読むまで、かなり遠回りをしているようですが、非常に意味のある遠回りです。この論語をきっかけにして、北尾吉孝先生(現SBIホールディングス株式会社代表取締役執行役員CEO)、そこから安岡正篤先生、森信三先生、吉田松陰先生、西郷隆盛先生とさまざまな先生につながっていくわけです。で、また論語にかえってくる。「本読みの時間」も相当ながくなりそうです。

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